椿海(つばきのうみ)とは江戸時代まで下総国の香取・匝瑳・海上郡(現在の千葉県東庄町・旭市・匝瑳市)の境界付近にあった湖である。伝えられるところでは東西3里南北1里半(約51平方キロメートル)の大きさがあったと言われている。また、江戸時代初期に作成された『下総之国図』(船橋西図書館所蔵)では、太田ノ胡水と表記されている。
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椿 湖
大古神代の時、日本に三本の大木あり、栗、楠、椿なり。 楠は長門國厚狭郡にて、神功皇后三韓退治の時伐取、筑前國海濱の岡にて神船を作る。大船四十八艘、小船數百艘出來有之、其伐り屑石と成る今両国に薪石と云ふ是なり。 栗は丹波國大江山の麓にありて、鬼神城郭の要害とす。源頼光酒呑童子退治の時、大守より所の百姓に云付、此木を伐らするに、一夜の内に肉生合伐る事を得ず。其時其親、子に教けるは、伐屑をば入火にして燒き棄てしかば終に伐らる。伐る時に教へし親甚悦び、木の本へ立寄りしに、此木急に打倒れ、親子打しかれて死す。是を呼で諺に丹波の爺うち栗と云ふ。 今一本は下總國椿なり。此椿は猿田彦命日本國分の時、三十三本の椿を植ゑて一ヶ國の境とす。香取海上匝瑳の三郡に枝葉はびこり、常に黒雲掩ひ掛り晴るゝ事なし。是鬼魔國の魔王日本國を傾けんとして、木下に住みて窺ふなり。香取鹿島の両神是を退治し給ふ時に、天の香土弓天の羽々矢を以て是を射給ふ。其の時鬼神急に椿を根抜にして辰巳が沖へ飛去りけり。此の時玉崎明神御加勢ありし故、俗に鹿島の末社と云ふ。右椿の抜跡漫々たる海となる。海上渺々、近在の人は鱗を取り鳥を捕り身命を助け、字をば椿湖云ふ。云々
(椿新田濫觴記抜粋)
椿湖、景行天皇五十三年冬十月、天皇従淡路渡于泡輪水門、轉陸巡總國、進至國央、有一倒木、本在東北、末在西南、越之如山、召諸老問事、數老皆奏曰、這大椿也、従神代有、花盛時天紅、花散時地紅、百神栖枝、常鎭光荒、萬人棲木、不營家屋、木神記木壽、曰、八十萬八千歳、木壽既竭、倶根倒矣、根跡成海故云椿湖、此國當上蕚故謂上總國、其下蕚謂下總國、云々
(舊事大盛經抜粋)
《注》鬼神が辰巳に飛び去ったことから今でも辰巳 から吹く風は恐ろしいと伝えられている。これ は海からの潮風による塩害のことである。
雷神社民話拾遺集より
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水神社
(開運波乗り神社巡り 第19番神社)
(東総九十九里の神社御朱印紀行 第1番神社)
御祭神:水波能賣命(みずはのめのみこと)
太古、椿の巨木の倒れた跡に椿湖(つばきのうみ)があった。
江戸時代の中期、湖を開拓し干潟八万石と呼ばれる広大な田畑が誕生。
寛文11年(1671)に開拓が完了し、浄地に祀られたのが春海の水神社、鎌数の伊勢大神宮、高生の椿神社の「新田三社」である
◆水神社の由緒:下総の国に椿湖(つばきのうみ)と呼ばれる、太古以来神秘の水をたたえた霊湖がありました。今から三百余年前の寛文年間に、この湖を干拓して農地をつくろうとはかり、幕府の許可を得て工事に着手しました。起工に当たり水の神様の水波売大神(みずはのめのおおかみ)の御神霊を、湖畔の清浄な地に奉斎(おまつり)し、大願成就の祈願をした日が寛文九年九月廿一日二六六九)ということで、戦前はその由緒によって陰暦九月廿一日が、水神社の祭礼と定められていた訳であります。(現在の例祭は十月十六日・十七日)水神様の御加護とお導きによって、古今未曾有の大事業は完成し、ここに椿新田十八郷が誕生し、今日の美田とわが郷土繁栄の基が築かれたのであります。我々の祖先は、ここに改めて神恩の広大さに感激し、先に祈藤を捧げた神域に社殿を造営して卸神徳を仰ぎ、新田十八ヶ村の鎮守として感謝の誠を捧げたのであります。続いて延宝六年(一六七八)には、水神社に対して官許があり、新田五町歩(五ヘクタール)を神饌料として後世に伝えられました。(農地法により開放)そうして三百余年水神様は、干潟八万石開拓の祖神(おおやがみ)として、郷民崇敬の中心となり今日に至ったのであります。
◆祭り最大の見せ場である御神体還御は午後から行われ、お仮屋を出発した神輿は白装束の若衆に威勢よく担がれ、軽快な囃子の音色に乗って、天狗を先頭に御神馬・侍2人・五穀待ち11人・神輿・囃子方と連なり、御神体還御が行われる。
◆春海地区内には4つの囃子連があります。 「千葉島囃子連」 「東和會」 「水蓮会」 「若衆会」
祭礼:10月17日に近い土・日曜日
2017年は10月7日・8日でした
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弥都波能売神(みつはのめのかみ)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の二神(日本書紀では伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神)による国生み・神生みの終わりに、伊邪那美命の尿から生まれた水をつかさどる女神です。
水の神であるため、後世では民間の井戸の神と習合することもありました。『古事記』では、弥都波能売神(みつはのめのかみ)と表記されます。
伊邪那美命が火神・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んで大火傷(おおやけど)を負い、病の床にふしたとき、苦しみのなかでまず糞(くそ)をし、次に尿をします。弥都波能売神は、その尿より生まれた神で、続くもう一柱の水神・和久産巣日神(わくむすひのかみ)が生まれたのち、伊邪那美命は亡くなります。
『日本書紀』では、水神・罔象女(みつはのめ)と表記されています。伊弉冉尊が火神に身を焼かれて苦しんでいるとき、神生みの最後の神として誕生します。なお『日本書紀』の神武天皇即位前紀では、天皇の祭儀に奉仕する厳姫(いつひめ)が供えた水を、厳罔象女(いつのみつはのめ)と呼んでいます。
伊邪那美命は、大地母神(だいちぼしん)的な要素をもつ神です。その神話的イメージとしての身体が大地であるなら、そこから排泄される尿は水であり、尿である弥都波能売神は水神といえるでしょう。そのうえで神話の展開を見れば、弥都波能売神とは、畏怖すべき火の霊威(れいい)を弱め、鎮(しず)めることのできる水の霊力を神格化したものと考えることができます。
伊邪那岐命は、二柱の出現と伊邪那美命の死ののち、母神を焼き殺した火之迦具土神の頚(くび)を切ります。そのようなイメージの連鎖のなかに、すでに火を鎮める水のというモチーフが、間接的に語られているのです。
神名については、ミツハ(弥都波)を「水(み)つ早(は)」として「水の出始め」の意味として、井戸や泉と関係させる説がある一方、これを「水走(みつは)」として、灌漑(かんがい)のための引水とする考え方もあります。これは農耕と水とのかかわりを強調する考えです。実際に弥都波能売神の神話的イメージにある尿は、農耕にとって非常に重要な肥料となります。その意味で弥都波能売神は、火を抑(おさ)える水神であるとともに、生産に豊穣をもたらす農耕神でもあるといえるでしょう。
水神
農耕神である
御利益 新徳
農耕守護
祈雨・止雨
子授け
神道・神社HPより
トイレの神とも言われております
トイレの神
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波乗り御朱印巡り ふさのくに神社御朱印
御朱印
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2009年途中下車にて春海地区が紹介されていました(2009年3月28日放送分)